ブロッコリーとの死闘の日々

私はブロッコリーが食べれない。

 

そもそもビジュアルが気に食わない。あれはただの木だ。みんなには緑が生い茂るアマゾンを想像して欲しい。そのジャングルの中で壮大にそびえ立つ木を口にすると、私は口内の水分を全部根に吸われてしまう。シチューなどに入っていて表面がコーティングされているものは辛うじて食べることは出来るが、一生自主的に食べることは無いだろう。

 

親が「大人になったら嫌いな食べ物はなくなる」みたいなことを言っていたが現に減った。幼少期の嫌いな食べ物を数え上げればキリが無いが、不思議とほとんど食べられるようになった。このような現象は味蕾が関係していると思う。人の感覚は肉体と同様に年を重ねると衰えていく。つまり味蕾の衰弱によって食べれるものが増えてくるのだ。年を取れば脂っこいものを食べられなくなるが、その代償としてこういった苦手なものが食べれるようになるのは何だか楽しい。

 

 

私の味蕾がタフなのか、それともよほど生理的にブロッコリーが嫌いなのかは分からないが22歳になった今でも嫌いな食べ物として健在している。ただこのまま味蕾が衰えれば死に際にはなんとなく食べたいと思うかもしれない。最後の晩餐がブロッコリーになるのだ。



この好奇心が日々の活力になっているように思える。そんな妄想を糧に今日も生きている。

 

 

 

退屈な毎日も当然のように過ぎてゆく

 

年明けに帰省した際にあまりにも時間を持て余していたので、Googleストリートビューで幼少期に住んでいた大津という所を見ていた。Googleストリートビューは凄い。住所を打ち込みさえすれば大きな道は全部見ることが出来る。このまま発達すれば、高い金を払って行き軽犯罪被害の危険がある「海外旅行」なんてものは無くなるかもしれない。

 

大津の風景は新鮮だった。なぜなら何年も住んでいたのにほとんど忘れていたからだ。まるで初めて訪れる街の景観を眺めているようにも感じた。人は忘却によって精神の均衡を保っている。ダーウィン的に言えば、忘れる能力を受け継いで生き残った子孫が我々なのだ。嫌な記憶は脳から消えていくというが、日常の記憶もある程度忘れていってるのだと思う。

 

ただ記憶が失われてしまうのはそれほど悪いことではない。忘れることで過去を懐かしむことができる。退屈と戦うためには新しいことを始めるより、案外昔のことを思い出すのが良いのかもしれない。

 

年をとると新しいことはどんどん減って、過去の光景の繰り返しだと感じる事が増えた。事実新しい発見はそう無く、日々のルーティンの中で生きているわけであるが、新たな体験をしていると思わせてくれるものに出会えた。

 

そんな幻影を泳ごう。

 

 

 

 

2017年の総括

 

今年ももう終わりを迎えている。今年度の目標として「充実した生活」を挙げていた。

漠然とした目標だったため、よく分からない絵が飾ってある美術館に行ったり、オシャレなカフェに行ってその写真をInstagramに投稿していた(所謂”インスタ映え”というやつだ)。

 

しかしそれらを行うことは長く続かない。何というかその行為に充実感を得られなかったし楽しくなかった。人間関係も同じだ。必要な物は人間関係であれ、日常のルーティンであれ、意識せずとも残っていくと思う。逆にいえば残らないものは要らないものだから、意識する必要もない。

 

ただ色々始めることは楽しい。6月くらいから新しい事を幾つか始めた。まだまだ発展途上ではあるが、間違いなくいいスタートがきれたと思う。質の高さは絶対的な量があって初めて生まれるとかどっかの偉い書道家が言っていたように、このブログの投稿頻度も高めたい。例えば週1とか。例えばね。

 

今年の年末はバイトが入ってるので帰省することもない、いわば普通の平日だ。帰省だとか初詣だとかの世間の流れに逆らって過ごすのも悪くない。

 

そうだ、帰り道に発泡酒とポテチを買おう。

 

型のない文章。

 

最近俳句にとても関心がある。バイト中お~いお茶のラベルに書いてある俳句コンテストの優秀賞みたいなものを見つけたのがきっかけだった。やはり俳句の良いところは五七五であるところだと思っていて、決められた文字制限の中で季語や自分の言いたいことであるとか見たことを書くのはとても至難の技であると考える。人間、自分の無いものを持っている人に惹かれるとはよく言ったもので、私自身芸術だとか文章作成の才を全く持ち合わせていないので尚の事俳句が美しいと感じるのだろう。

 

 

論理的な説明や読みやすい文章を書く技術とかを昔ネットで調べて勉強したこともあったけど、なんというかこちらが道を整えなくても読み手を信じてあげれば大体は理解してくれるだろうし、別に理解されなくても私はこういうふうに記事として記せればいいから後先のことなんて知ったことではない。お金をもらって記事を書いてるならまだしも一円も稼げない、ましてや十数人程度しか見てないこのブログにおいてはこのスタンスで十分だなと思う。そもそも「話す」に対して「書く」の情報量が少なすぎると感じていて、バイトの後輩への仕事指示も本当はメモするのが良いのだろうけれども、面倒なので全部口頭で指示する日もある。そんなもんだろう。

 

 

今年の夏吉住と遊んでた時にバスの中で知らない白髪のおばあちゃんに戦争の話を聞かされた。確か「北朝鮮は危険な国だ」とか「頭ごなしに安倍政権を批判するのはダメだ」みたいな話で話が長すぎていい加減飽きが来てたけど、最後に「ごめんなさいねぇ~私若い人と話すの好きなのよねぇ~ありがとうねぇ~」と言われ飴をもらったので悪い気分では無かった。帰りにきたねえ屋台でわけのわからないたい焼きの中にカスタードクリームの入ったものを買って、吉住が明らかに生地が破れて中のクリームが漏れてる方を渡してきたことに憤りを感じたけど、たい焼きがあまり好きでは無くてどうでも良くなったし、今思えば許容の多い1日だった。

 

ただたい焼きの中にクリームやっぱりたい焼きはあんこだからこそたい焼きであるのであって、カスタードクリームを入れて女子ウケを狙おうという目論見がみえみえだと思うのは多分俺だけじゃないし、お祭りに現れるテキ屋が、スーパーで買った牛肉を串に挿して焼いたものを600円で売ってるのもおかしいはずだよなって誰にも言えなかったけど、今日ここに思いを吐露出来ただけで今日はとてもいい一日だったなと思う。

 

良い日かに玉、悪い日めんたま