乗り継いで、乗り継いで、目的地に行く

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 昨日に取得した有給休暇と土日を含めて3連休だったため、3日とも電車に乗って遠くまで行った。現在東京の西側にある多摩地区に住んでおり、このように休日は長い時間電車に乗ることがある。どこに行くのも遠いため、複数人で集まる場所を決めるときに、私の居住地は考慮されないことが多い。しかし、言い換えればどこへ行くにも電車で行けるということになる。東京は複数の路線及びダイヤがインフラとして機能しており、私の体感で言うのであれば、都内であれば乗り換え3回且つ1時間20分以下で移動することができる。

 

 例に漏れず、この3日間全て1時間以上かけて移動した後に友人と遊んだ。私は新しく知り合った人と遊ぶことは親しい友人とのそれと同様に楽しいと思っている。前者は刺激、後者は安らぎを与えてくれるからだ。この期待を裏切らない、充実した3日間を送ることができた休暇となったと思う。

 

 話は変わって、私は人よりも長い学生時代を過ごした。留年や浪人はしなかったものの、義務教育から高等教育、更には大学院の前期課程を卒業したからだ。地元の友人、あるいは高校の同級生と比較しても私は少数派かもしれない。しかしあまりに長い学生時代は、社会人になった今に比べると随分楽だったと感じることが多いように感じる。例えば、給料と共に発生する責任がまず一因に挙げられるが、それだけではないだろう。

  

 私は卒業という明確なゴールがあることも大きな理由だと思う。学校というものは、中退や退学をしない限り、入学して卒業し、また次の教育機関に入学するという極めてシンプルな構造になっている。そして、卒業する要件という形で、義務教育では文科省、高等教育では各学校が定めた教育方針や評価基準をクリアするために、日々勉学に励んでいくことを目標にして進んできた。ところが社会人になったらどうだろう?会社では年度や四半期ごとに目標はあるものの、自分の人生プランについては完全に自由だ。決まった区切りがなく、例えばこのまま同じ会社で働き続けるのであれば、間違いなく退屈な日々が待ち構えているかもしれない。

 

 だから、40数年という、学生時代より遥かに長い期間を過ごすために結婚するんだと思っていた。旧来的な思想で言えば、異性と婚姻関係を結び、授かった子供が成人するのを見届けることで、そのゴールの達成者を自分から子供に移すことで、仏教で言うところの輪廻のようなものが続いていくのだとばかり考えていた。そんな思想を持ち合わせているが故に、次々に結婚していく友人を送り届けては喜ぶ傍ら疎ましく感じていたし、そういうった境遇からは程遠い自分に引け目を感じていたんだろうと思う。

 

 ただ最近、もう少しだけならそんなに行き急ぐこともないんじゃないかと考えるようになってきた。関東に上京してから1年半が経ち、窮屈なご時世ながらも色んな人に出会えた。そんな彼らの価値観に左右されることはないものの、知らない電車に乗れば知らない駅があるように、もう少しだけ自分自身も別の場所に足を伸ばしても良いかもしれない。と感じている。目的地まで様々な乗り換え方があって、途中の駅で降りてもいいし、或いは目的地すら決まってないのかもしれない。

 

そんな妄想に今は身を任せている。